セネカ 『生の短さについて』 読書録的な

 セネカの『生の短さについて』の個人的な要約というか解釈というか、メモです。内容については、

セネカ大西英文訳) 『生の短さについて 他二篇』 岩波書店 2010年 

に寄っています。

 

 

 

作品の案内

 本篇はセネカの著作の中でも訳本を入手しやすい作品群のうち、長くもなく短くもないほどの分量で、文庫本で50ページほどです。執筆時期については、解説によると紀元50年ごろとされているようです。内容については、ストア派ワールド全開のものが少なくないセネカの著作の中でも話題を理解しやすいものであるように感じます。

 形式的な情報を簡単にまとめたところで、本作を読む上で楽しめるポイントを述べておきたいと思います。もちろん第一にはセネカの哲学的な主張があるのですが、それは後に言及するとして、それ以外には当時のローマの生活、文化、風習がよく記されている点があります。例を挙げると、“伺候”と呼ばれる、当時のローマに見られたパトロヌス(保護者、有力者)とクリエンテス(被保護者、支援者)関係における朝の挨拶への記述があります。パトロヌスとクリエンテスの関係、文字だけでみるとザ・歴史学的知識とでもいうべき硬いイメージがありますが、この朝の挨拶をめぐる人間たちのあれこれが、セネカの秀逸な記述のおかげで、今の我々にも形を変えて多々存在する、する方にとってもされる方にとっても面倒な人間関係のアレコレと同じようなものなんだな、と感じられます。他に、おもしろい風習でいうと、死にそうな老人を若者が親切に介護してやり、老人の遺産の相続に預かろうとする遺産漁りの行為や、それを逆手に取り、病弱を装って若者たちに親切にしてもらう狡猾な老人たちの描写もあり、時代や環境が変わっても我々は我々だな、という妙な安心感すら覚えてしまいます。本作の主題である「生の短さ」へのセネカの哲学的返答もまた、そのような時代を超えて我々にも沁みる普遍的なものとなっています。

1~6章 生の本質的な長さ、生の浪費

 タイトルを見る限り、一見セネカは生を短いものと考えているように受け取れる。あっという間に過ぎる人生の儚さ、そういう意味では我々にとってもなじみのあるテーマといっていい。その意味でこの問題に関して我々はいったん彼を錯覚してしまう、同様の悩みを持っているのだと。しかしながら、タイトルに反してセネカは第1章で早速、「われわれの享ける生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽する、それが真相なのだ」(p.12)と指摘する。ここで彼のスタンスが明かされるとともに、この逆説的な論の展開により我々の意識はぐっと彼の方に引き寄せられる。続く2章、3章でセネカは数々の例を示しながら我々が「時間の消費となると、貪欲が立派なこととされる唯一の事柄であるにもかかわらず、途端にこれ以上はない浪費家に豹変してしまう」(p.16)ことを嘆く。この直前でなされる、「財産を維持することでは吝嗇家でありながら」(p.16)という旨の指摘も相まってこの嘆きはより強調される。時間と財産(金銭)の交換は我々が普段あたりまえに行っていることだからだ。それと同時に次の話題である、「自分の時間」や「自分の生を生きる」という概念の提示のための下準備がなされる。続く4章から6章にかけては「賢者」の概念が提示される。アウグストゥスが切望し続けた閑暇を心行くまで愉しみ、運命の翻弄され続けたキケロを後目に運命を超越する存在として、文字通りの「この上ない」存在が示される。

 

7~8章 生への自覚

 そして7章に至る。ここでまず以後頻出する「何かに忙殺される人間」(p.24)が説明される。そして本題に入る。ここから9章にかけての部分が一つの最高潮といっていい。彼は「生きる術は生涯をかけて学び取らねばならないものであり、また、こう言えばさらに怪訝に思うかしれないが、死ぬ術は生涯をかけて学び取らねばならないもの」(p.26)であると言う。「さらに怪訝に」が絶妙だといえよう。「生きる術」を学ぶために生涯をかけなければならないという矛盾がまず怪訝な印象を与える上に、我々にとっては迂遠な存在である「死ぬ術」も同様であるというからだ。こうした思想の底にストア派の死生観が表れていることは疑いない。しかしそれ以上に、(自分の)生に向き合い、生きる術を学び続けるということこそが「(自分の生を)生きる」ということに他ならないというセネカの痛切な訴えかけが逆説的な表現の技によって強く映し出されている。本編を通じてセネカは単なる生存や生活と「生きる」ことを明確に区別している。だからこそ、「人間的な過誤を超越した偉人の特性は、自分の時間が寸刻たりとも掠め取られるのを許さないことなのであり、どれほど短かろうと、自由になる時間を自分のためにのみ使うからこそ、彼らの生は誰の生より長い」(p.26)という主張につながる。ここで述べられているのは、自分の時間は自分のために使いましょう、とか、貴方を嫌う人のために時間を割くなんてもったいない、などというありきたりな警句ではない。行為そのもの、時間そのものは確かに他人のためであれ、他人に与えられた契機によるものであれ、少なくともそうした営為に対しては、それを行うさなかにおいては、自分の生を割いて行っているという自覚をもって関与するからこそ、そうした偉人たちはその行為のさなかにも確かに「生きて」いるのである、ということだ。要するに生への自覚の問題である。だからこそセネカはここまでの随所で我々の「忘れやすさ」(3章末尾)や「忙殺され」てその自覚から目をそらす現状(7章前半など)を嘆いているのである。これを受けて、それゆえ、「生きる」ことをせずに長寿を迎えた人間は「長く生きたのではなく、長くいただけ」(p.29)であるという指摘が成り立つ。8章においては我々の一貫性のなさ、つまりある場合には時を何ら価値のないものであるかのように他人に振りまく一方で、死の間際などにおいては金に糸目をつけずに延命を求めるような、見方によっては相反する姿勢を指摘する。ここにも財産との比較がある。財産なるものと少なくとも同等、いやそれ以上に価値があるはずの時間を、どうして財産ほどにすら重んじることができないのか、という彼の嘆きが聞こえてくる。

 

9章 「ただちに、生きよ」

 そしていよいよ9章に至る。ここで視点は未来へと向かい、話題は「先延ばし」に移る。ここでいう「先延ばし」は一般的な意味での先延ばしとは少し異なる意味合いがある。ここでセネカが指摘する「先延ばし」は未来に対する計画、予定全般といっていい、その意味ではすぐにやるべきことを明日に回してしまう我々になじみ深いあの悪癖に限定されない。むしろ、続く部分を考慮すれば、我々がよくやってしまう悪癖としての先延ばしはここでの問題になっていないとさえ読める。彼はこの「先延ばし」を「生の最大の浪費」(p.32)として非難する。彼に言わせれば、「生きることにとっての最大の障害は、明日という時に依存し、今日という時を無にする期待」(p.32)なのであり、我々は「先延ばし」により「運命の手中にあるものをあれこれ計画し、自分の手中にあるものを喪失している」(p.32)のである。つまり今を犠牲に未来に希望を託す意味での「先延ばし」、我々にとってはよい意味での事前準備ともいえる方の「先延ばし」が非難されているのである。これは我々に確実に与えられている「今」を犠牲に、到来するのかはっきりしない不確かな「未来」に期待しているから、というわけだ。そこに次の言葉、本編の主張を端的に言い表した一文が続く。「ただちに生きよ」(p.32)。本編におけるセネカの訴えかけはこのわずかな語句に凝集されているといっていい。我々の手元に確かに存在する「今、現在」を重視し、そうし続ける、まさしくその意味で自覚的に「生」に向き合え、というメッセージである。そしてこの9章は、次の切実な警句で締めくくられる。

 

やむことなく続き、矢のごとく過ぎ行くこの旅路は、何かに忙殺される者には、終着点に至るまで、その姿を現さない。(p.33)

 

10章 過去の提案

 10章においては現在、過去、未来の比較と過去の重要性へ話題が移る。この時間の3区分についてセネカは「生は三つの時期に分けられる。過去、現在、未来である。このうち、われわれが過ごしている現在は短く、過ごすであろう未来は不確定であり、過ごした過去は確定している」(p.34)と整理する。未来の不確定と過去の確定は、それらに対する運命の支配権の有無から生じる。未来は実際に到来するかは厳密には不確定であり、過去は認識としてはともかく事実としては変化のしようのない確定したものであるということだ。ここからは「過去」なる時間の重要性、その価値に焦点が当たる。ここでまず「過去」に対する我々の姿勢と「賢者」の姿勢の違いが述べられる。彼は、「過去に行なった行為のすべてが自分の良心という決して誤ることのない監督者の検閲を経た者を除けば、喜んで過去を振り返ろうとする者は誰もいない」(p.35)と指摘する。つまり「忙殺される者たち」は、過去を顧みたところでどうしようもない後悔に襲われるのが関の山なので一般に過去を振り返ろうとはしないというわけだ。しかしこの過去こそ「永遠で不安のない所有物なのである」(p.35)であると彼は言う。彼の論によれば、賢者は運命が支配する未来に過度な期待を寄せず、現在という時間に真摯に向き合い、そして過去という確定した所有物を重んじるからこそ生を長く保つことができるのである。一方で未来に過剰な期待を寄せて現在を台無しにして、また過去を振り返っても後悔ばかり募る「忙殺される者たち」にとっては「与えられる時間がどれほど多かろうと、無意味なのである」(p.36)と指摘する。つまり実際に短いか長いかにかかわらず彼らは生を短くしてしまうということだ。

 

11~13章 賢者と識者

 11章から13章にかけては、「賢者」の側に属する「閑暇の生」、「閑暇の人」との対比を念頭に「何かに忙殺される者たち」とその生が説明される。12章ではそんな「何かに忙殺される者たち」の生を当時のローマ富裕層が享受していた豪華を引き合いに出しながら「不精な多忙」や「怠惰な忙事」として批判している。13章では12章で批判した「不精な多忙」などと同様に文学研究や歴史研究にも矛先が向く。高尚たない文学研究」(p.43)、「つまらない事柄を詮索するこの病癖」(p.43)、「何か立派なことに結び付く知識とすべきであろうか」(p.45)などというように(ストア派をはじめとする)哲学の効能と対比されながらなされている。

 

14~15章 賢者の生の長さについて

 14章から15章にかけては先の学問への批判とは逆に哲学への称賛がなされる。「すべての人間の中で唯一、英知(哲学) のために時間を使う人だけが閑暇の人であり、(真に)生きている人なのである」(p.48)としたうえで、「彼はまた、あらゆる時代を自分の生涯に付け加えもする。彼が生を享ける以前に過ぎ去った過去の年は、すべて彼の生の付加物となる」(p.48)と続く。つまり、先の章で重要視していた「過去」という我々の所有物には、自分の人生以外のものも付け加えることができる可能性があるということである。ここでセネカが付け加えるべきものとして提示しているのが後に列挙される哲学者たちの思想である。少なくとも主観的には、そうした偉大な哲学者たちの残した思想を我々の財産(過去)に加えることは可能である。だからこそ、あくまでも主観的には「われわれがこの上ない忘恩の徒でないかぎり、神聖な思想のさまざまな学派の令名赫々とした創始者たちは、われわれのために生まれ、われわれために生を用意してくれたと考えねばならない」(p.48)のである。さらにその意味で過去は「悠久にして永遠であり、より善き人々と共有する時」(p.49)なのである。15章に入るとそうした哲学の営みに触れることが生を長くすること、引き伸ばすことにつながるという論に移る。偉大な思想家たちは「君に永遠への道を切り拓いてくれ、君を何人も投げ落とされることのない高みへと昇らせてくれるであろう。これこそ、死すべき人間の生を引き延ばす唯一の方法、いや、死すべき人間の生を永遠不滅の生へと転じる唯一の方法なのである」(pp.51-52)と続く。賢者の生が長いことについては以下のように説明される、「幾許かの時が過ぎたとしよう。賢者は回想によってその過去を把握する。時が今としよう。賢者はその今を活用する。時が未だ来らずとしよう。賢者はその未来を予期する。賢者はあらゆる時を一つに融合することによって、みずからの生を悠久のものとするのである」(p.52)と。

 

16~17章 運命の不安定について

 16章から17章にかけては13-14章を受けて再び「何かに忙殺される者たち」に話題が移る。彼は言う、「過去を忘れ、今をなおざりにし、未来を恐れる者たちの生涯は、きわめて短く、不安に満ちたものである」(p.53)と。ここで、先の15章で賢者が未来を「予期」しているのに対し、何かに忙殺される者たちは未来を「恐れ」ているのが良い対比となっている。つまり賢者は過度な期待や不安もなく未来を予測・予知するのに対し、忙殺される者たちは期待や不安の入り混じった感情を、運命の不意打ち一つで揺らぐ期待を抱くというわけだ。それに続いて、そうした「何かに忙殺される者たち」の生においても、何か娯楽までの待ち時間などに時が長く感じられる場合があるという事実は彼らの生が長いことの根拠となりえないことが説明される。彼らがそうした待ち時間を長く感じるというのは、「待望するものが延び延びになるのは、彼らには待ち遠しくて耐えられない」(p.54)からであり、「彼らにとっては、一日一日が長いのではなく、一日一日が疎ましい」(p.54)ことが理由であるからだ。その彼らがもし、忙殺されていた対象から解放され、閑暇を始めることができたとしても「その閑暇をどう処理してよいのか、その閑暇をどう引き延ばせばよいのか、途方に暮れるのであ」(p.53)り、結局「忙殺される何か別のものに彼らが救いを求めるのはそのためであり、あいだの空き時間のすべてが彼らにとって厄介なものであるのはそのため」(pp.53-54)であるという。我々になじみ深い例でいうならば定年退職した高齢者が日々の張りを失うというような現象がそれだろう。仕事に「忙殺されていた」彼らはいざその仕事を退くとあり余った時間をどうしてよいかわからなくなる。この現象に対しては、再雇用や趣味を見つけることが現代社会の提示する対処法ではあるが、それこそ先にセネカが指摘した、自分を忙殺してくれる何か別のものに逃げ込むことに他ならない。17章では、王侯たちの例に触れた後、幸福について「偶然にやって来たものはすべて不安定なものであり、高く登れば登るほど、それだけ転落の危険は大きくなる」(p.56)と指摘する。この著作のみからでは想像しづらく、また我々の感覚とも隔絶するところだが、ここでいう運(偶然、不確実さ)に左右される「偶然にやって来たもの」はなにも先に触れた王者たちの権力や地位などの事物に限定されない。他の著作(セネカ『摂理について』5章などを参照)と合わせて理解するならば、これは例えば我々の友人や恋人、そして子供、言うまでもなく自分の身体や息すらも含むと考えてよい。やはりこの著作には十分に示されてはいないが、当然、彼らストア派の提示する善きものはそれら「偶然にやって来たもの」を必要としないものである。

 

18~20章 閑暇への勧め

 18章から20章にかけてはパウリーヌスへの呼びかけをしながら全体のまとめに入っている。パウリーヌスへの「ものぐさな、あるいは懶惰な閑居の生活に入り、そうして君のその生来の淡刺とした活力を惰眠と、俗衆の好む快楽に溺れさせろ、と言うのではない。そのようなものは閑居ではない」(p.59)という部分からセネカの勧める「閑暇」が単なる暇ではないことが再び確認される。また、何かに忙殺される者たちについては、「自分の生がいかに短いかを知りたければ、自分の生のどれだけの部分が自分のものであるかを考えてみればよいのである」(p.62)と断じたうえで「誓って、そのような者たちの野辺の送りは、いわば最短の生しか生きなかった者として、松明と蠟燭の火に照らされて進むべきなのである」(p.64)とまとめる。松明と蠟燭の火、これらは当時のローマにおいては子供の葬儀にかかわるものであった。つまり夭逝した者への葬儀こそふさわしい、ということである。