セネカ 『幸福な生について』 15章後半部分を中心に

 

 エピクテトスの提示した概念である、圏内と圏外の話を聞いた。セネカの著作において私が最も印象深く記憶していた部分にまさしく重なる話であった。飲み会帰りの酔った状態だからかもしれないが、その時の感動をいまだに覚えている。11月の話なので年明けぬうちに何かしら書き留めておこうと思っていたが、少し間に合わなかった。

 

引用部は基本的に以下による。

セネカ大西英文訳) 『生の短さについて 他二篇』 岩波書店 2010年 

 

 

 

 先日、高校の頃の恩師や当時からの友人と会う機会があった。といっても、畏まって恩師などというほどの年月はたっていないのだが。そんな飲み会からの帰り、恩師との会話で何かしらの伝記(覚えていない)を読んだときの話を聞いていた際、エピクテトスの圏内と圏外の話を聞いた。飲み会では全然普通な会話をしていたのでどういう経路でそんな話になったのか謎ではあるものの。

 エピクテトスの圏内と圏外、圏内とは自分の力でどうにかし得ること、圏外とは自分にはどうしようもないこと、といった意味合いだ。そして圏外を必然のものとして受け入れること、圏内に注力すること説く自由論の類である。もっとも、聞いた話からの理解だから相当にあやふやではあるのだが、自分にはすんなりと入ってきた考え方だ。というのも、このエピクテトスの論に、まさしく符合するものがあった。セネカの『幸福な生について』、15章末尾の「神に従うこと、それこそが自由にほかならない」だ。あらためて、この文章を文脈から抜き出して読むと、なんとも教義的というか、宗教的な文言に見える。もっとも、宗教も哲学的な側面を多いに持つだろうし、私はセネカの思想というものを宗教的なものとしても(その意味で肯定的に)見ている。

 

神に従うこと、それこそが自由にほかならない

 「神に従うこと、それこそが自由にほかならない」(p.165)、私の解釈はこうである。「自分の行動によっては不変、不可避であるものを、必然のものとして受け入れることこそが、まさしく自分の行動により可変であるもの、つまり自由の領域をよく認識することである」。例えて言うなら、枝から外れたリンゴが地に落ちるその重力の働きを嘆いても仕方ない。しかしながら、観察やら経験によってそのリンゴが落ちる前に収穫することは当然できるはずだ。そういう風に私はこのセネカの言葉を理解している。

 『幸福な生について』15章の後半部分はこの一言のために存在するといっていい。前半の部分の「神に従うこと」は、その前の部分の「何にせよ、宇宙の成り立ちからして甘受しなければならないものは、大度をもって受け止めねばならない」(p.165)が対応する。少し間が開いて、「われわれの力では避けえぬことに動揺はしない」(p.165)と後半部分に対応する箇所が続く。それらをまとめて、「われわれは(神の)王国に生きているのである。神に従うこと、それこそが自由にほかならない」と締まるわけだ。

 セネカは、いやストア派は「神」という概念を多用する。ここでいう「神」は神さまでありもするが、神さまだけではない。運命であり、必然であり、摂理であり、物理法則でもあり、文字通り、「避けえぬこと」の総体でもある。

 

運命との対峙

 考えてみれば当然のことだといえる、避けられない事態ならば、無用な動揺も悲観もせず冷静に受け止めるべきというのは。理性を重んじるストア派の思想そのものである。加えて、冷静に受け止める(打撃を与えられないでいる)こと、まさしく「運命を軽蔑せよ。精神を撃てる武器は運命に何一つやらなかった」(摂理について、6章。兼利琢也訳 岩波書店『怒りについて 他二篇』p.38)である。しかしながら、言うだけなら簡単というか、言うは易く行うは難しそのものな考え方だ。『幸福な生について』においては、自由、とりわけ運命との対峙においての自由という概念は、どこかの章で集中的に扱われているというよりはちりばめられた形で論じられている。作品の主題である幸せな人生、それを脅かすものが運命である以上、その運命から隔たった領域たる自由がもう一つの主題となるのである。

 

幸福な生についての解

 幸福な人生とは、心の平静が保たれていることである。だからこそ節度を持つことで、自然な欲求のみ追い求め、不必要な欲求の追及により生じる不足、不安、喪失などの苦しみから逃れるべきである。だからこそ「パンと水さえあれば、幸福でゼウスにも勝る」のだ。

 これはエピクロス派の考えだが、こう書くと、やはりエピクロス派とストア派の近さを思い知る。実は13章においてストア派哲学者セネカエピクロス派について非常に面白いことを述べている。「わが(ストア派の)朋輩は不服であろうとも」(p.153)、「エピクーロスの教えは尊く、正しいものであ」(p.153)ると指摘しているのだ。ストア派の朋輩が不服であるというのは、当時のローマ人たち、とりわけストア学徒たちはエピクロス派を正しく理解もせずに堕落しきったものとみなしていたからである。しかしそれは実際には同族嫌悪から生じた誹謗の集積の効果によるものに過ぎない。なぜ誹謗し続けたのか、まさしく見まがうほどに近しいからにほかならない。両者は結論が、つまるところ徳と幸福の関係性の認識に、もちろんここが最重要の部分だが、差異があるに過ぎない。

 結論から入ると、セネカの言う幸福な生とは、静謐、心の平静である。この静謐を脅かすものが運命(不運といつか破裂せずにはいられない幸運)である。だからこそ、転落の危険のない「いかなる力も引きずり下ろすことのできない高みへ」(p.164)登れる確固たるもの、運命と対峙・決別できる自由が必要なのであり、「そのような高みへ登れるのは唯一、徳のみ」(p.164)であるから、「したがって、真の幸福は徳に存する」(p.165)。幸福な生とは、有徳な生にほかならない。

 

ちなみに

 「じゃあセネカはそう生きているの?」当然の疑問だ。曰く「日々、自分の過ちを責め、自分の欠点から何かを取り除くことができれば、それで十分なのである」(p.168)と。なんなら自分で自分に「お前は、言ってることと、現実の生き方が違うではないか」(p.169)とツッコミをしているほどだ。第一この『幸福な生について』の執筆にあたっては少なからぬ自己弁護が、それはセネカがネロ帝との関係の中で多額の財産を得たことへの攻撃に起因して高まった反感に対してであるが、あるともいう。個人的にはこうした歪みともいえる部分を抱えながら哲学を語る姿こそが、セネカ最大の魅力であると思う。